おはようございます。
日常生きていると、いや生きていることそのものが不要なものを増やしていく行為じゃないかと感じます。
洗濯をする。食事をする。ゴミを出す。
その行為そのものにも汚れを落とす、包装された袋を捨てるなど、行為そのものが無駄なものを発生させる過程です。
作った食事も体の中に入り、消化されて、栄養吸収がされた残りは排泄されます。
自分にとって必要なものを取り入れ、不要なものをのける行為そのものが生きることかもしれません。
日ごろミニマルに生きていきたいと思う意識でもってしても、毎週のゴミ出しの際にこんなにもゴミを出しているのかと少々考えてしまうことがあります。
しかしながら、空気を吸えば、空気を吐かなければならないように、インプットとアウトプットは生きる上でのワンセットです。
大量のものを摂取して、少量出す生き方。
少量のものを摂取して、大量に出す生き方。
ほどほどに摂取して、ほどほどに出す生き方。
それは個人の自由な意思だと思います。
ひとたび外に出れば、様々な誘惑が待ち構えており、不要なものを必要なものと思い込み、いろいろと目移りした挙句、一日終わってみれば、
あれ?今日は何をしたいんだったっけ?と思う一日を繰り返してきた私は、基本的に捨てる意識をベースにして毎日を組み立てていくことが生きやすさにつながっています。
捨てるということはモノやコトの消費をコントロールすること
一人で生きていると、モノやコトの消費はコントロールしやすいです。これは当たり前ですが、コントロールする相手が自分だからです。
そもそも自分をコントロールするのも難しい。
目の前にカップがあり、その中にコーヒーを淹れて飲む。
そしてそのカップを洗い、食器棚に戻す。
そういう一連の単純な行為はコントロールはしやすいです。
ただ生きていくことは、こういった行為だけではありません。
上記の例で言えば、コーヒーを飲む際に甘いものを一緒に食べたいとか、美味しく飲むために豆から挽いて飲もうとか、一人より二人だとか、雰囲気のいい店で飲もうとか、いろいろ考えていくと、モノやコトが増えていきます。
その行為そのものを選択して楽しむならすごく素晴らしいことだと思います。
ただ日常の習慣や行動に行為そのものの本質とは外れた付随物がついていないかどうか。
時間は限られていますので、捨てるという選択をしていかないと、一日終わったときに、何をしてたんだっけ?ということになりかねません。
じゃあどうすればいいのか?
極端に考えると、彩や楽しみも失われます。
先ほどの例で行くと、
コーヒーを飲まないという習慣をもてば、①コーヒーを買う②湯を沸かし、コーヒーを入れる③コーヒーを飲み、カップを洗い、食器棚に入れる
上記のような一連の行動が一日の中からなくなります。
時間にして30分ぐらいでしょうか?
でもその行動で得られるであろう安心や楽しみも同時に失われます。
それに付随して甘いものを食べるだとか、場所に移動して友達と一緒に過ごすだとかを入れると、
時間は1時間、2時間、3時間とどんどんかかっていきます。
でも時間が欲しいから、それをしないとなると、それをすることにより得られたであろうものも失うことになります。
言いたいのは自分にとって大事なものは残して、優先順位的にさほど高くないものは選択肢から外していくということです。
そんなこと普通にやっている、という人はほとんどだとは思います。
ただ必要に駆られやっているつもりでも果たしてそうかというと、必ずしもそうではないことがあるかもしれません。
大事なのは目的であって、そのためにこれをやっている。
というのが自分の中にあれば、それをやる。
それ以外は基本的に選択から外していくということが、私は大事だと思います。
こういう風に考えるのも、近年いろいろ便利にはなるが、やることは増えていき、時間がどんどん無くなっていっているというのを痛感するからです。
改めて捨てるということ
数年前からミニマリズムという考え方が人気になりました。
これは便利になり、生活が物質的に豊かになったが、果たして本当の豊かさとは何だろうか。
そういうことを個人的には考えるきっかけとなりました。
物質的な豊かさと精神的な豊かさ。
単純に割り切れないものかもしれません。
ただモノもコトも捨てるという選択を通じて、自分にとっての豊かさを考えていくということは大切なことではないかと思います。
明日も早起きします。
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