おはようございます。
ミニマリズムというと、単にモノを減らしていくということに焦点が当てられていると思います。
それだけでも十分に価値があるということだと思います。
でもその本質とは何だろうかと考えると、表層ではなく、ファッションでもない、見えてくるものがあるのではないかと考えます。
モノとコト
例えば家の中に3個のモノがあるとします。
椅子、テーブル、テレビ。
それだけでも椅子に座るという形。テーブルを使うという形があります。
そこにテレビがあります。
椅子に座り、テーブルに何かを置き、テレビを見るという一つの形が存在します。
その形、仕組みといってもいいかと思いますが、それがある。
そうすると、そのうえでの組み合わせは無限です。
テーブルの形や種類、椅子の種類、テーブルに置くモノの種類、テレビの番組の種類。
その1つ1つに判断・思考・時間を費やすことになります。時間を伴って。
上の3つのものが仮になければ、当然それに付随するものは発生しません。
椅子に座ること。テーブルに何かを置くこと。テレビを見ること。
いやいや、椅子に座らなくとも、テーブルを使わなくとも、テレビがなくとも、それに代わる何かを使うんじゃないか。
そういう風に言われると、その通りかもしれませんが(笑)、ここでは例えとして書いています。
このようにモノによって、生きる上でのコトは、心地よいものであれ、そうでないものであれ、制限というか規定されることがあります。
その本質はコトではないか
何もないところにモノがあると、自分たちの思考や行動はその枠組みの中に引っ張られる。
モノがあればあるだけそれに規定されているとも言えます。
自分にとって余計なモノを持つことで、考えなくてもいいことを考えて、使わなくてもいい時間を使っているとしたら、考えるだけでも怖いですね(笑)
ですので、モノがたくさんあると、思考や時間が分散し、その結果自分の本来やるべきコトも分散するのではないか。
そういうことはひとつ言えるのかなと思います。
これはモノそのものを持つことを否定しているのはありません。
自分にとって必要なモノを見極めて、少なくもつことが、自分のコトを見極めて、よりよく生きることができるんではないかという一つの考えです(笑)
コトとは行動
モノにはコトを規定することがあるんではないか。
モノを少なく持つことで、思考や時間をより大事なコトに集中させることができるんではないか。
ではコトととはなんですか?
そういわれると、行動であり、自分が本当に費やしたい時間なんではないかと思います。
モノがたくさんある。
それを欲しいと思う。
それを手に入れる。
それに伴う時間を使う。
それに慣れて、飽きると、また違うモノを手に入れる。
そしてまたそれに伴う時間を使う。
これはモノに規定された時間の使い方。
そうではなく、自分の行動や本当に費やしたい時間であるコトを使うために、モノを付随的に使う。
まず自分がやりたいこと、やらなければならないこと、やっていて本当に心から充実すること。
そのモノを使うことによって、自分のコトがより便利になり、その時間がより充実するモノはなんだろう?
そういう視点でモノを選んではどうか。
行動とは人生時間
上記の考えでモノを考えていくと、自然モノは減っていきます。
また時間も増えていきます。
一日みんなに平等に与えられている24時間ですが、その使い方の内訳を変えるということになります。
同じ時間を過ごすならば、できるだけ気持ちよく、平穏で、楽しく過ごしたいと思います。
それを自らの組み立てで変えられるとしたら、まず身近なモノとの関わり方を考えてみるのもいいかもしれません。
そのモノにどれだけの時間を使っていて、その時間に自分は幸せかどうか。
自分を見つめなおす考え方
単にモノを減らせばいいと一時期思っていたこともありました。
それも無駄なことではなかったと思います。
実際にモノが減ると、気持ち的にも身軽になるのがわかります。
でもモノがすべてなくなるのも味気ない。
足るを知るという境地にはまだまだなれないのだと恥じ入るばかりです。
でもミニマリズムとは何だろうかと実践する中で、わかったこともたくさんあります。
人により、合う合わないというのがあるかと思いますが、今のところ合っている気がします。
明日も早起きします。
コメント