その差をわけるもの

早起き

おはようございます。

先日嫌なことがありました。

日ごろ喜怒哀楽を表情に出さないように見えても、心の奥底では感情は消えていません。

ある本の中にこの世は感情のキャッチボールをしている、という表現をみたことがあり、すごく納得したことがあります。

例えば、学校や会社で先生や上司に怒られたとします。そこで健全に言い返せればいいですが、そんなことができる人はなかなかいません。

そこでその怒られたという感情を我慢したとします。

そのエネルギーを健康的に解消できる人はいいです。

例えば怒られないように次は注意しよう。例えば努力して結果を残し、見返してやろうなど自分のレベルをあげることによって解消できる場合は、その怒られたことが糧になります。

でもそうでない場合、どうでしょう。

行き場のない怒りを我慢し続けることはなかなかむずかしいです。

お酒やついついの出来心で爆発してしまうかもしれません。

事象は同じでも、態度は自分で決めることができる

私も普通の人間ですので、ストレスや怒りや情けなさで行き場のない感情を持て余すことがあります。

でも運が悪いとか、運命を恨んでも何も始まりません。

ある時、こういうことに気が付きました。

自分にとって、不幸に見えることが起こった場合、それを不幸と一番とらえているのは自分である。

でもそれを今は不幸かもしれないが、この経験があり一年後に幸福になることができれば、この出来事は不幸にはなりません。

今この瞬間不幸であっても、それを本当に不幸であるかどうかを決めるのは、その事象のとらえ方で決まってしまうということです。

またその捉え方を判断できる自由な意思を私を含め全員が持っています。

できるだけプラスの解釈のほうが得だ

何があっても人生は続く。

とするならば、日々の出来事を無理やりにでもプラスに解釈して、生きていくほうが損得で行くと

得であるということではないでしょうか?

批判も逆境も、悪口もいじめも、努力が報われないことも、失恋も、離婚も、あらゆる受け入れがたい事実も、本人にとって都合の悪い事実であればあるほど、それを解釈する自由な意思は、とても大事です。

どんな状態であってもプラスに解釈したほうが得なんではないか。

その時間に味わう気分の連続が人生

嫌なことがあったとします。

帰宅途中、帰ってから、お風呂に入っているとき、ずっとそのことを繰り返し考えます。

思い出したくもないのにあれが・・・とか、あの人が・・・とか、あそこでこうしておけば・・・とか。

これもこの時間も自分は生きていて、他責や後悔で頭がいっぱいになる。

当然その時は心は上の空、ご飯を食べていてもそのご飯の味もよく覚えていない。大切な人と話してもそのことに引っ張られて、内容もよく覚えていない。

そんなことないでしょうか?

でもその嫌な気分の間も自分の人生時間を消費している訳です。

長々と書きましたが、ある日それに気が付いてから、物事に対する態度をできるだけ前向きにとらえることにすると、出来事に感謝できるようになるということに気が付きました。

感謝が大事だといろいろな自己啓発本に書いてあることではありますが、それがわずかにでも、そのような気持ちになることができるようになります。

逆に感謝ができないというのは、物事に対して後ろ向きに捉えているということかもしれません。

同じ24時間、できるだけいい気分で過ごしたいとおもいませんか?

まとめ

たまにこんな状況で、よくここまで頑張ってきたなと思う人と出会うことがあります。

そういう人は大概、その不幸な出来事を必ず糧にしており、それがあったからこそ今があると言い切ります。

「塞翁が馬」という言葉は本当にその通りだなと、最近感じます(笑)

明日も早起きします。

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